2011年05月26日

二つの記事:長崎は「脱原発」連合は「凍結」

今日のニュースから、二つに注目したい。

■長崎被災協が「脱原発」 運動方針の新たな柱に(長崎新聞)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20110526/01.shtml

1956年の設立以来、核兵器廃絶の運動はしてきたけれども原発の是非には触れてこなかった長崎被災協の評議員会で、満場一致で脱原発の運動方針を決定したとのこと。

■連合、原発推進の方針凍結…今後は白紙で議論(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110526-00000890-yom-pol
 
昨年8月に原発推進を表明していた連合が「着実に進める」としていた従来の方針を凍結することを決めた。

 
このまま世の中が脱原発の流れにシフトしていくことを切に願います。

posted by sneshika at 22:55| 原発

2011年05月25日

6.11脱原発100万人アクションinヒロシマ

6.11脱原発100万人アクション、広島でもやります!



脱原発6.11_1仕上がりイメージ.jpg


脱原発6.11_2裏仕上がりイメージ.jpg
posted by sneshika at 01:06| 原発

2011年05月20日

アフガニスタン戦死者慰霊碑

このブログ、始まりがあまりに唐突でタイトルも過激でした。
普通、始めるときは、「今日から私もブログを始めることにした、、、」とかなんとか
始まりらしいことを書くものなのでしょうね。

私は一生ブログなんて書くことはないと思っていました。
ただの普通の市民の独り言を公表しても、日記を他人に見せるようなもので、恥ずかしいだけだと思っていました。
でも、今回、あまりに驚き、書かずにはいられなくなってしまったのです。
憤りのため、過激なタイトルをつけてしまい、広島のヒバクシャの皆さん、申し訳ありませんでした。

PA100034.JPGさて、ブログ初心者の挨拶に代えて、バナーの写真のお話でも書こうかと思います。
写真はベラルーシのミンスク市内を流れるスビスロチ川の中州にある「アフガニスタン戦死者慰霊碑」です。遠くから眺めると凛として美しい姿の慰霊碑で、結婚を誓う若い人たちがよく訪れる所ですが、涙を流す母や幼子を抱いた妻などの像が3面に立ち並び、その悲しい表情に胸を打たれます。中には亡くなった人の写真を胸に抱く姿もあります。
ソ連のアフガニスタン侵攻(1979〜1989)では、ソ連側で一番多く戦死者を出したのがベラルーシだったそうです。
髪を覆ったその姿には、同じく家族を失ったアフガニスタンの女性の姿や、チェルノブイリの犠牲者を悼む家族の姿も重なって見えてくるかのようです。

PA100029.JPG



posted by sneshika at 23:38| ベラルーシ

2011年05月18日

心配なこと

チェルノブイリ事故から避難した人に聞き取り調査をした方のお話を先日聞きました。

原発労働者の町プリピャチから、ウクライナの首都キエフに移住した人を対象にした聞き取り調査です。
政府は避難者には優先的に公営住宅を提供し、交通費無料パスも支給されました。さらに学校の給食では他の子どもたちより何か一品多かったそうです。
それらは当然あるべきことだったのだと思います。
けれども、もともとキエフに住む住民の中には、公営住宅への入居の順番を長く待っている人たちがいて、それが避難者に持っていかれてしまったとやっかみを言われることが多かったとか。バスでも嫌な顔をされ、学校では他の子どもたちにいじめられ・・・

先日知人に「広島にも数百人の人が避難してこられてるんですって」と、私が言ったら、彼女は「そうなのよ。これで私も、いつ市営住宅に入れるかわからない」と困ったようにつぶやくのです。
彼女の事情をよく知っているだけに責める気にはなれません。

もちろん、何かおかしいのかもしれません。避難する方のために新しい住宅が建てられることが一番いいのかもしれません。
でも、お願いだから、体の被曝だけでなく、中傷による心の痛みまで広島、長崎やチェルノブイリの人たちと同じにしないでください。

チェルノブイリの聞き取り調査をされた広島大准教授の川野さんの記事がありました。
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000161105110001
posted by sneshika at 23:31| 原発

2011年05月17日

広島は福島に謝らなければならない(3)

広島で開かれた原子力平和利用博覧会の写真は見つかりませんが、翌年開催された広島復興大博覧会の写真。
この原爆資料館が原子力館として使われました。

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img018s.jpg


この原子力平和利用キャンペーンで利用されたディズニー映画
Our Friend The Atom


【追記】

このブログを読んでくださった方から、どちらでの開催かわかりませんが、原子力平和利用博覧会内部の様子を送っていただきました。

原子力平和利用博覧会.JPG
posted by sneshika at 01:40| 原発

2011年05月16日

広島は福島に謝らなければならない(2)−利用された被爆者

「1955年1月 米下院議員、広島に原子力発電所建設提案」を知って、初めてブログを書いたその日、つまり昨日、ブログで引用した広島平和研究所教授 田中利幸さんの講演がありました。
その偶然に運命的なものを感じて参加したのですが、それは実は必然的なことだったのかもしれません。
なぜこの被爆地広島の歴代市長が原発に反対してこなかったのか、なぜ核禁運動の中で、原発は大きく取り上げられないできたのか、今までずっと思い続けてきた疑問を、今、解き明かさないではいられない、という人は少なくない、ということなのだと思います。

田中教授によれば、アメリカのシドニー・イエーツ議員の提案は以下のものでした。
 1、広島を原子力平和利用のセンターとする。
 2、私の考えでは広島の原子力発電所は3年以内に操業できる。
 3、私は最初に原爆に被災し、いまなお治療を要する6千名の広島市民のため、病院建設を計画したが、原子力発電所建設の方が有用だと考えるに至った。

それに対する広島の反応としては、当時の浜井市長は「医学的な問題が解決されれば大歓迎」、「原爆の子」の長田新広大名誉教授は「民主平和的な原子力研究が望ましい」、森瀧市郎広大教授は、原発には反対だが、論点は原爆被害者の治療と生活の援助の方を希望するというものでした。
t02200310_0800112811181657014.jpg 
この後、日本各地で「原子力平和利用博覧会」が大々的に行われ、広島でも56年5月27日から3週間にわたって開催されました。会場は前年度に完成した原爆資料館。期間中、収蔵品は公民館に移され、原爆資料館は原子力のバラ色の夢で満たされたのです。
この博覧会を見た著名人たちは平和利用による有効性を認めた感想を述べています。イエーツ議員の提案の時には反対の意見を述べていた森瀧さんでさえ、廃棄物の処理問題に危惧を持ちながらも、原子力の応用の大きいことを認めているのです。

田中教授の考察
まさに地獄のような原爆体験をさせられ、放射能による様々な病気を現実に抱え、あ
るいはいつ発病するか分からないという恐怖のもとで毎日をおくっている被爆者たち、しかも被爆者の中の知的エリートたちまでもが、なぜゆえに、かくも簡単にこの「原爆=死/原子力=生」という二律背反的幻想の魔力にとり憑かれてしまったのであろうか?しかし、そのような苦しい体験を強いられ、愛する親族や友人を失い、自分も傷つけられた被爆者だからこそ、「貴方たちの命を奪ったものが、実は、癌を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギー源でもある」というスローガンは、彼らにとっては、ある種の「救い」のメッセージであったのかもしれない。花
火や音楽をともなったお祭り騒ぎの「原子力平和利用博覧会」や「復興大博覧会」は、被爆者にとっては、そうした「救いと復活」のメッセージの祭典であったのではなかろうか。アメリカにとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、原爆被害者から「原子力平和利用」支持のこのような「お墨付き」をもらうことほど有利なことはない。それゆえにこそ、広島が、とくに被爆者が、「原子力平和利用」宣伝のターゲットとされ、繰り返し「核の平和利用」の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に眩惑されてしまったのである。その
意味では、被爆者たちは「核の二重の被害者」とも言える存在である。

田中利幸
posted by sneshika at 23:51| 原発

2011年05月15日

広島は福島に謝らなければならない


私は広島生まれではありませんが、この地に住んで久しい広島市民です。
原爆について、ある程度は知っているつもりです。でも、すぐ説明しろと言われると難しい。
ですから、そういう必要が生じたときは『絵で読む 広島の原爆』文:那須正幹、絵:西村繁男(福音館書店)という絵本を紹介しています。

絵本ですが、子どもたちだけでなくおとなにも多角的に原爆を知ることができる1冊です。
被爆時の惨状はもちろん、マンハッタン計画、核の連鎖反応、放射線障害、放射性物質が蓄積しやすい臓器、半減期、、、、そういえば、臨海という言葉もこの本で知りました。

ところで、今日改めてこの本の中に出ている年表を見たのですが、そこに、「1955年1月 米下院議員、広島に原子力発電所建設提案」という一文が書いてあります。
ある程度反核運動などをされている方は「そんなことも知らないの?」と言われるかもしれません。
でも、私は知らなかったのです。
「なんと、アメリカは原爆で破壊し、汚した地に、原発まで押しつけようとしたのか、」と憤りをもって、早速この件を調べました。

森瀧市郎さんの『核絶対否定への歩み』(渓水社)によれば、
1955年1月、イエーツ米国下院議員が広島に原子力発電所を建設すべしとの提案をなした、との報道が新聞・ラジオで行なわれたので、原水禁広島協議会常任理事会で協議し、問題点を明示する声明書を出す。

中国新聞に載った声明
1、原子力発電所装置の中心となる原子炉は、原爆製造用に転化される懸念がある。
2、原子炉から生ずる放射性物質(原子核燃料を燃焼させて残った灰)の人体に与える影響・治療面の完全な実験が行なわれていないため重大な懸念がある。
3、平和利用であっても、原子力発電所の運営に関してアメリカの制約を受けることになる。
4、さらに、もし戦争が起こった場合には広島が最初の目標になることも予想される。
5、原爆を落とした罪の償いとして広島に原子力発電所を設置するということもいわれているが、われわれは何よりも原子病に悩む数万の広島市民の治療、生活両面にわたる完全な補償を行なうことを要望する。

この声明に対する浜井広島市長の新聞談話は「原子力平和利用は一昨年から私が米国によびかけていたもので、とくに昨年渡米したときマイク正岡氏にも頼んだ。彼の熱心な運動が実を結んだのだと思う。しかし微量放射能による悪影響が解決されない限り平和利用はあり得ない。
いずれにしても原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行なわれることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」

さらに、広島平和研究所・教授 田中利幸さんの「原子力平和利用」と広島
http://peacephilosophy.blogspot.com/2011/05/yuki-tanaka-hiroshima-was-target-of.html によれば、
広島市は1958年4月1日から、「広島復興大博覧会」を開催した。最も人気を集めたのが、史上初のソ連の人工衛星を展示した宇宙探検館と原子力科学館であった。原子力科学館には、55年に開館した広島平和祈年資料館が当てられた。

『広島復興大博覧会誌』には、次のような描写も含まれている。「近い将来実現可能な原子力飛行機、原子力船、原子力列車などの想像模型が並べられている。人類の多年の夢が、今や現実のものとなってくるかと思えば本当に嬉しい限りだ。原子力の平和利用は、世界各国が競うて開発しているところであるが、ここには各国最新の情勢が写真でもって一堂に集められている。
今や日進月歩の発展を遂げつつある世界の原子力科学の水準に一足でも遅れないようにわが国も努力をつづける必要があると痛感させられる。」


先ごろ、日本への原子力発電所導入をめぐる、アメリカと読売新聞の正力松太郎氏についての番組を見ましたが、広島の市長自らがアメリカに働きかけていた事実、また、広島復興大博覧会における原子力科学の展示が現在の原爆資料館の前身で行われ、人気を博したことには驚愕する思いです。

これが今日につながってきたのかと思うと、広島は福島に謝らなければならないのではないでしょうか。
posted by sneshika at 01:44| 原発