2011年05月16日

広島は福島に謝らなければならない(2)−利用された被爆者

「1955年1月 米下院議員、広島に原子力発電所建設提案」を知って、初めてブログを書いたその日、つまり昨日、ブログで引用した広島平和研究所教授 田中利幸さんの講演がありました。
その偶然に運命的なものを感じて参加したのですが、それは実は必然的なことだったのかもしれません。
なぜこの被爆地広島の歴代市長が原発に反対してこなかったのか、なぜ核禁運動の中で、原発は大きく取り上げられないできたのか、今までずっと思い続けてきた疑問を、今、解き明かさないではいられない、という人は少なくない、ということなのだと思います。

田中教授によれば、アメリカのシドニー・イエーツ議員の提案は以下のものでした。
 1、広島を原子力平和利用のセンターとする。
 2、私の考えでは広島の原子力発電所は3年以内に操業できる。
 3、私は最初に原爆に被災し、いまなお治療を要する6千名の広島市民のため、病院建設を計画したが、原子力発電所建設の方が有用だと考えるに至った。

それに対する広島の反応としては、当時の浜井市長は「医学的な問題が解決されれば大歓迎」、「原爆の子」の長田新広大名誉教授は「民主平和的な原子力研究が望ましい」、森瀧市郎広大教授は、原発には反対だが、論点は原爆被害者の治療と生活の援助の方を希望するというものでした。
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この後、日本各地で「原子力平和利用博覧会」が大々的に行われ、広島でも56年5月27日から3週間にわたって開催されました。会場は前年度に完成した原爆資料館。期間中、収蔵品は公民館に移され、原爆資料館は原子力のバラ色の夢で満たされたのです。
この博覧会を見た著名人たちは平和利用による有効性を認めた感想を述べています。イエーツ議員の提案の時には反対の意見を述べていた森瀧さんでさえ、廃棄物の処理問題に危惧を持ちながらも、原子力の応用の大きいことを認めているのです。

田中教授の考察
まさに地獄のような原爆体験をさせられ、放射能による様々な病気を現実に抱え、あ
るいはいつ発病するか分からないという恐怖のもとで毎日をおくっている被爆者たち、しかも被爆者の中の知的エリートたちまでもが、なぜゆえに、かくも簡単にこの「原爆=死/原子力=生」という二律背反的幻想の魔力にとり憑かれてしまったのであろうか?しかし、そのような苦しい体験を強いられ、愛する親族や友人を失い、自分も傷つけられた被爆者だからこそ、「貴方たちの命を奪ったものが、実は、癌を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギー源でもある」というスローガンは、彼らにとっては、ある種の「救い」のメッセージであったのかもしれない。花
火や音楽をともなったお祭り騒ぎの「原子力平和利用博覧会」や「復興大博覧会」は、被爆者にとっては、そうした「救いと復活」のメッセージの祭典であったのではなかろうか。アメリカにとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、原爆被害者から「原子力平和利用」支持のこのような「お墨付き」をもらうことほど有利なことはない。それゆえにこそ、広島が、とくに被爆者が、「原子力平和利用」宣伝のターゲットとされ、繰り返し「核の平和利用」の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に眩惑されてしまったのである。その
意味では、被爆者たちは「核の二重の被害者」とも言える存在である。

田中利幸
posted by sneshika at 23:51| 原発